「聞こえが悪いこと」そのものが苦しいというわけではない。
calm(静寂)とpeace(平穏)は一心同体の仲だ。
(耳鳴りは絶えないが)

本当に苦しいのは、聞こえが悪いことに気づかされた時だ。
その瞬間、スイッチが入ったかのように恐怖が訪(音ズレ)る。

そう、それまで相手と何とか話すことができた。
目を見ながら。口元をたどりながら。身振り手振りも交えて。
私は理解した(と思った)ので、ウンウンとうなづく。

相手は喜んでくれる。これならもっと話せそうだ。
次第に能弁になっていく。微笑みを浮かべながら…

そうしてホニャララが聞こえてくる(聞き取れない)。
さあ、そこからが躓きの始まりだ!

「そのホニャララって何?」「ホニャララって〇〇のこと?いや違うか?」
「というか、楽しそうに話しているのに、中断するのは悪い」
「もしかしたら文脈で分かるかも/落ち着け、もう少しその先を」
「というかそもそも質問してさらに答えが分からなかったらどうしよう」

等々が頭の中を駆け巡る。
腹の中に不安がうず巻く。
でも、その思考の最中にも相手は言葉を重ねているわけで。

しまいには目の前の/目にしている話題が「〇〇」かどうかも自信がなくなってくる。
あるいは大変な見当違いをしているかも、と。

さらに相手は追い打ちをかける(悪気は微塵もなく)。
「分からなかったらなんでも聞いてみてよ」

でももう、その時には何が分からなくなったかもわからなくなっているのだ。

(終)

投稿者

なんちょう

5年のインターバルを経て、両耳とも突発性難聴が発症してしまった奇特な人。右耳は完全に×(中耳断絶)、左耳のみ補聴器でかろうじて音を拾う。まち歩きが好き。山では歩いたり走ったり。

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